論理と直觀
三木清
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(例)概念のもとに[#「のもとに」に傍点]
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我々が物に行くのは直觀によつてである。これは如何なる物であらうとさうである。ただ物に行くといふのみではない、直觀によつて我々は物の中に入り、物と一つになるとさへいはれるであらう。故に知識といふものが元來何等かの物の知識である限り、如何なる知識も直觀に依るところがなければならぬ。直觀のない思惟は、如何に形式を整へるにしても、空轉するのほかない。直觀を嫌惡する論理主義者は、物を嫌惡するものといはれるであらう。論理はただ論理として價値があるのでなく、物に關係して價値があるのである。物に對して論理が押附けられるのでなく、むしろ物の中に論理が入つてゐるのでなければならぬ。しからば物の論理といふものには何等か直觀的なところがないであらうか。他方もとより直觀もただ直觀である故に尊重されるのではない、直觀に對する情熱は物に對する情熱でなければならぬ。しからばまた物の直觀には何等か論理的なところがないであらうか。
およそ論理には差當りカントのいつた如く二つのものが考へられるであらう。カントはそれを一般論理と先驗論理といふ言葉で區別した。一般論理は認識のあらゆる内容から抽象して、言ひ換へると、對象に對するあらゆる關係から抽象して、思惟の單なる形式を取扱ふもの、つまり形式論理である。この論理に合つてゐる場合、我々の認識は正しいといはれる。しかしそれは未だ眞といふことはできぬ。なぜなら眞理とは我々の認識と對象との一致であり、眞であるためには我々の認識は對象に關係しなければならぬ。形式論理は未だ眞理の論理ではない。カントが一般論理に對して先驗論理といふものを考へたのは、眞理の論理を明かにするためであつた。先驗論理は眞理の論理と見られた。我々の認識は如何にして對象に關係するかといふことが、その根本問題であつた。眞理の論理は單に形式的なものでなく、内容の論理、物の論理でなければならぬ。かやうなものとして眞理の論理は直觀の問題を離れ得ないであらう。形式論理は單なる思惟の問題であるにしても、眞理の論理はつねに思惟と直觀の問題である。カントが一般論理と先驗論理とを區別して、一般論理の對象は思惟の分析的手續であるに反して、先驗論理の對象は綜合的手續であるといふとき、やはり同じ問題が含まれてゐる。「種々の表象は分析によつて一つの概念のもとに[#「のもとに」に傍点]もたらされる(これは一般論理の取扱ふ仕事である)。しかるに表象ではなくて表象の純粹綜合[#「純粹綜合」に傍点]を概念へ[#「へ」に傍点]もたらすことを教へるものは先驗論理である」(Kr. d. r. V. B 104)。綜合といふ場合、直觀の多樣が豫想されてゐる。單なる論理的反省がただ概念に關はり、分析的であるに反して、先驗的反省は直觀の問題と結び附いてゐる。「我々が單に論理的に反省するとき、我々はただ我々の概念を悟性において相互に比較する、即ち二つの概念はまさに同一のものを含むかどうか、兩者は矛盾するかそれともしないかどうか、或るものが概念のうちに内的に含まれるのかそれともそれに附け加はつてくるのかどうか、また兩者のいづれが與へられたものとして、いづれが與へられた概念を思惟する一つの仕方に過ぎぬものとして、認めらるべきであるか、と」(Kr. d. r. V. B 335)。これに反して先驗的反省は、我々が取扱ふのは感性的對象であるかそれとも悟性の對象であるかといふことに關はり、そして單に悟性の對象が問題である場合、それによつては何物も認識されないのである。認識は綜合であり、先づ直觀の多樣が與へられねばならぬ。分析は我々がもつてゐる概念を明瞭にするにしても、それによつて我々の知識が増したといふことはできない。眞の意味における認識は、それによつて我々の知識が増すのでなければならぬ。言ひ換へると、眞の認識は創造的或ひは發見的である。かやうな認識は綜合的である。創造的なものは綜合的なものである。ところでカントに依ると多樣の綜合は悟性の所作ではなくて構想力の所作である。表象の純粹綜合は生産的構想力に屬してゐる。多樣の綜合を概念的統一へもたらすものはもとより悟性もしくは先驗的統覺であるが、綜合そのものは構想力の作用であり、統覺の統一はこれを前提しなければならない。統覺は悟性として構想力の綜合の上に働くのである。現象の多樣は構想力の綜合によつて統覺の統一に合致するやうに覺知される。「多樣の、統覺の統一に對する關係によつて、概念が生ずる、概念は悟性に屬する、しかしそれが感性的直觀に關して成立し得るといふことは構想力の媒介を俟つて初めて可能である」(Kr. d. r. V. A 124)。かやうにしてカントは構想力は感性と悟性とを媒介するものと考へた。形式論理において主語が述語に包攝されるといふやうな述語的綜合とは異る眞理的綜合は感性と悟性との綜合でなければならず、かやうな綜合は構想力によつて可能になるのである。論理と直觀との結合は構想力において見出されるといひ得るであらう。構想力そのものは直觀的である、それは直觀的であつて論理的であるといひ得るであらう。創造的或ひは發見的であるべき認識は構想力の媒介に俟たなければならぬ。
元來、思惟とは如何なるものであらうか。思惟が可能であるためには、ラシュリエのいつた如く、二つの條件が必要であると考へられるであらう。第一の條件は、我々の感覺の各々から區別される主觀といふものの存在である。なぜなら、もしこれらの感覺だけが存在するとしたら、それらは悉く現象と混じ、從つて我々自身或ひは我々の思惟と呼び得るやうな何物も殘らないであらうから。第二の條件は、我々の感覺の同時的竝びに繼起的多樣のうちにおけるこの主觀の統一である。なぜなら、各々の現象と共に生れまた滅びる思惟は我々にとつてやはり現象でしかなく、そしてこれらの分散した一時的な思惟のすべてを眞の思惟の統一にもたらすために我々は新しい主觀を必要とするであらうから(Oeuvres de Jules Lachelier, I 49)。ラシュリエが擧げた第一の條件は我々自身の統一を意味してゐる。そしてカントのいふ先驗的統覺はまさにこの條件に應ずるものである。先驗的統覺は自己意識であり、自己の同一性の意識である。これなしには如何なる認識も不可能であるとカントは考へた。しからば我々は如何にしてこの我々自身の統一の意識を有し得るであらうか。ここに我々はデカルトを想ひ起すことができるであらう。デカルトが「私は考へる、故に私は在る」といふとき、そのやうな自己意識或ひは自覺を意味したと見ることができるであらう。そしてこのデカルトの命題は推理ではなく直觀的に自證されるものとすれば、かかる直觀がおよそ思惟の可能になる條件でなければならぬ。しかしデカルトの自己は論理的に見ると未だ分析的統一であるといはれるであらう。思惟の可能の條件として要求されるものはこれに反して綜合的統一である。如何にして我々は我々自身の統一の意識を有し得るかを説明するだけでは足りない。同時に如何にしてこの統一が、分割されることなしに、我々の感覺の多樣のうちに擴げられ、そしてかくして單にそれ自身の思惟でなく、更に宇宙の思惟であるところの思惟を構成するかが示されなければならぬ、とラシュリエは述べてゐる。そしてカントも、先驗的統覺は元來綜合的統一であり、その分析的統一は綜合的統一を前提すると考へた。「私が與へられた表象の多樣を一個の意識[#「一個の意識」に傍点]に結合し得ることによつてのみ、これらの表象における意識の同一性[#「これらの表象における意識の同一性」に傍点]そのものを表象することが可能である、即ち統覺の分析的[#「分析的」に傍点]統一は何等かの綜合的[#「綜合的」に傍点]統一を前提してのみ可能である」(Kr. d. r. V. B 133)。ところでその場合、思惟は自己自身の存在に對して解き難い謎に面するかのやうに思はれるとラシュリエはいふ。なぜなら、思惟は我々の感覺が感覺そのものとは區別される主觀において結合されるのでなければ存在し得ず、そして感覺そのものから區別される主觀はまさにそのことによつてそれらを結合することが不可能であるやうに見えるから。しかるにこの困難を逃れる手段はラシュリエに依ると唯一つある、即ち「それは、我々が我々自身の眼に構成する統一が作用の統一ではなくて形式の統一であること、そして我々の感覺の間に外的な不自然な聯關を立てるのではなくて、その統一がこれらの感覺そのものの自然的な一種の親和と凝聚から結果することを認めるといふことである」(a. a. O. 51)。ところで知覺の多樣のかくの如き自然的な親和はカントが「現象の親和」と稱したものである。そして現象の親和はカントに依ると構想力における綜合の必然的な結果である。かやうに考へてくると、自己といふものも綜合的統一として、構想力に基づくと考へられはしないであらうか。そのことは、自己といふものを單に知的なものとしてでなく、また情意的なものとして考へる場合、さう考へられるであらう。構想力によつて我々の感情的な能力と知的な能力との間に絶えざる一致が立てられる、とメーヌ・ドゥ・ビランもいつてゐる。更にそのことは、自己といふものが單にいはゆる精神でなく、精神と身體との構造的統一であると考へる場合、さう考へられるであらう。構想力は矛盾する性質を結合することのできる我々の唯一の能力である、とフンボルトはいつてゐる。自己は綜合的統一である、一における多であり、多における一である。構想力の論理は元來かやうなものなのである。
いつたいカントの自己は何處にあるのであらうか。自己はつねに環境にあるといはねばならぬ。主觀に對して客觀と考へられるものが單に身體的自己に對する外界のみでなく、また單に意識的自己に對する身體のみでなく、意識内容もまた客觀と考へられ得るやうに、環境といふものもどこまでも内に考へてゆくことができるであらう。いづれにしても、自己はつねに環境にある。自己が綜合的統一であるといふこともこれに基づいてゐる。ホルデーンに依ると、有機體は環境に、或ひは、環境は有機體に同格化され、これによつて生命が維持される。かくて環境は有機體の構造において表現され、逆に有機體の構造は環境において表現されてゐる。そして構造と作用とは分離することができぬ。そこに論理の根本形式がある。ラシュリエが統一は作用の統一としてでなく形式の統一として見られねばならぬといふとき、それは作用が構造と不可分のものであることを意味するのでなければならぬ。主體が環境において表現され、逆に環境が主體において表現されるといふことが、カントのいはゆる綜合的統一の意味でなければならぬであらう。ライプニツは知覺は統一において多樣を表現すると考へた。自己はモナドとしてかかるものである、各々のモナドは自己において世界を映す鏡である。論理は物のうちに、世界のうちにある。物のうちにある論理は何等か直觀的でなければならぬ。直觀から分離して論理を考へようとするのは、構造から分離して作用を考へようとすることにほかならない。構造と作用とが分離し得ぬ限り、直觀と論理とは結び附いたものでなければならぬ。
自己は環境においてあり、環境が自己において表現され、逆に自己が環境において表現されるところに、多樣における統一、統一における多樣といふ論理の根本形式が與へられてゐるのであるが、かやうな自己は單なる表象的自己ではなくて行爲的自己である。環境が我々に働き掛け、逆に我々が環境に働き掛ける。環境が我々を限定し、逆に我々が環境を限定する。自己といふものもそこに形成されるのである。我々は環境を形成することによつて自己自身を形成してゆく。そこに一般に技術といふものがある。自己も技術的に形成されたものである。行爲的自己は技術的
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