自己である。知識の問題もかかる行爲的自己に關係して考ふべきであらう。そこで技術といふものの論理的構造を見なければならぬ。すべての技術は先づ自然法則を前提してゐる。如何なる技術も自然法則に反して存在することができぬ。この自然法則はいはゆる運動原因に關するものであり、因果の法則と呼ばれてゐる。ところで次に技術には目的が加はらねばならぬ。そこには目的原因があり、技術は因果論と目的論との綜合であるといふことができる。しかもこの綜合は客觀的に、技術的に作られたものにおいて現はれるのである。自然法則は客觀的なもの、目的は主觀的なものであつて、技術は主觀的なものと客觀的なものとの統一であると考へられる。かやうなものとして技術的に作られたものは表現的である。しかし技術における目的は單に主觀的なものであつてはならないであらう。單に主觀的な目的、單に肆意的な意欲をもつては、我々は何物も作ることができぬ。技術は却つて我々に單に主觀的な目的を離るべきことを教へるのである。技術における目的は客觀的なものでなければならぬ。しかしそれは目的原因としていはゆる運動原因とは異るものであり、單なる因果論によつては説明することのできぬものである。目的論はそれ自身の論理的構造をもつてゐる。それは全體性の概念を基礎とし、全體が部分を規定し、部分が全體の分化であるといふ有機的關係である。技術においてはこのやうな關係が見られるのであつて、そのために技術は表現的といはれるのである。表現においてはつねに全體と部分の目的論が存在してゐる。それは論理的には「體系」と稱することができる。カントは人間理性は本性上建築的であるといひ、その「體系の技術」によつて知識は一つのイデーのもとに、全體と部分の必然的な關係において、建築的な統一にもたらされると考へた。それは一つの目的論的構造であり、そこに技術が考へられるのである。ところで全體はもと構想力に關はり、從つて何等か直觀的に與へられるものである。これを純粹に論理的に考へると、全體即ちイデーはカントのいふやうに決して到達されることのない課題と考へるのほかないであらう。しかし全體が單に課せられたものでなく、與へられたものでなければ、少くとも表現といふものはない。それは構想力によつて與へられるといふ特殊な仕方で與へられるものである。その場合、概念的に體系と呼ばれるものは表現的に形と呼ばれるであらう。すべて表現的なものは形を有してゐる。全體は論理的であると共に直觀的なものである。カントは人間理性は建築的であるといつたが、構想力こそ技術的なものといはねばならぬであらう。
 技術は因果論と目的論との統一であるが、かやうな統一がまた我々の思惟の基礎であると考へられるであらう。ラシュリエは『歸納法の基礎』の中で、自然法則の概念は二つの區別される原理に基づくと論じてゐる。その一つの原理は、それによつて諸現象が系列を形作り、この系列において先行のものの存在が後續のものの存在を決定する。いま一つの原理は、それによつてこれらの系列がまた體系を形作り、この體系において全體のイデーが諸部分の存在を決定する。ところで他の現象をこれに先行することによつて決定する現象は運動原因と呼ばれるものであり、そしてその諸部分の存在を作り出す全體は、カントに依ると、目的原因である。かくて歸納法の可能性は運動原因と目的原因との二重の原理に基づく、とラシュリエは論じてゐる。もとより二つの原理が別々に自然のうちにあるわけではないであらう。そこで自然のうちにも因果論と目的論との統一があるとすれば、自然も技術的であるといふことができるであらう。カントも「自然の技術」といふものを考へた。經驗的法則は甚だ多樣であり、それに合する自然の形態も極めて異質的である、けれども我々はそこに一個の體系を前提し、經驗的法則の體系的聯關を考へる。かやうにして判斷力にとつて特殊的なものを、同じく經驗的な、しかし一層一般的なものに包攝してゆき、遂に最高の經驗的法則及びそれに合する自然の形態に包攝するといふことが可能になる、かやうにして特殊的な經驗の堆積を經驗の體系として考察するといふことが可能になる。そこに自然の合目的性が考へられるのであつて、自然は技術的であるといはれるのである。ラシュリエのいふ歸納法の基礎もそこに考へられるであらう。尤もカントに依ると、自然の合目的性は、先驗的原理であるにしても、範疇の如く自然の成立の根據になるものではなく、我々が自然を考察する仕方に關係してゐる。それは規定的判斷力ではなくて反省的判斷力に屬してゐる。しかし既にラシュリエの如く目的原因に運動原因と少くとも同等の權利を認めるとすれば、自然の技術といふものにも實在的意味が認められるであらう。自然の技術もカントにおいては主として知識の立場から考へられた。しかるに技術そのものは行爲の立場から捉へられることを要求してゐる。知識の問題も元來行爲的・形成的立場において見らるべきものである。自然の技術といふとき、自然そのものが形成的であるのでなければならぬ。そしてもし技術の論理が構想力に屬するとすれば、構想力の論理は世界形成の論理であることになるであらう。このやうな世界の論理は論理的であつて直觀的である。



底本:「三木清全集 第四巻」岩波書店
   1967(昭和42)年1月17日発行
底本の親本:「知識哲學」小山書店
   1942(昭和17)年3月発行
初出:「知性 三月号」河出書房
   1941(昭和16)年3月
入力:Juki
校正:川山隆
2007年4月28日作成
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