ことのできぬものである。目的論はそれ自身の論理的構造をもつてゐる。それは全體性の概念を基礎とし、全體が部分を規定し、部分が全體の分化であるといふ有機的關係である。技術においてはこのやうな關係が見られるのであつて、そのために技術は表現的といはれるのである。表現においてはつねに全體と部分の目的論が存在してゐる。それは論理的には「體系」と稱することができる。カントは人間理性は本性上建築的であるといひ、その「體系の技術」によつて知識は一つのイデーのもとに、全體と部分の必然的な關係において、建築的な統一にもたらされると考へた。それは一つの目的論的構造であり、そこに技術が考へられるのである。ところで全體はもと構想力に關はり、從つて何等か直觀的に與へられるものである。これを純粹に論理的に考へると、全體即ちイデーはカントのいふやうに決して到達されることのない課題と考へるのほかないであらう。しかし全體が單に課せられたものでなく、與へられたものでなければ、少くとも表現といふものはない。それは構想力によつて與へられるといふ特殊な仕方で與へられるものである。その場合、概念的に體系と呼ばれるものは表現的に形と呼
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