當りカントのいつた如く二つのものが考へられるであらう。カントはそれを一般論理と先驗論理といふ言葉で區別した。一般論理は認識のあらゆる内容から抽象して、言ひ換へると、對象に對するあらゆる關係から抽象して、思惟の單なる形式を取扱ふもの、つまり形式論理である。この論理に合つてゐる場合、我々の認識は正しいといはれる。しかしそれは未だ眞といふことはできぬ。なぜなら眞理とは我々の認識と對象との一致であり、眞であるためには我々の認識は對象に關係しなければならぬ。形式論理は未だ眞理の論理ではない。カントが一般論理に對して先驗論理といふものを考へたのは、眞理の論理を明かにするためであつた。先驗論理は眞理の論理と見られた。我々の認識は如何にして對象に關係するかといふことが、その根本問題であつた。眞理の論理は單に形式的なものでなく、内容の論理、物の論理でなければならぬ。かやうなものとして眞理の論理は直觀の問題を離れ得ないであらう。形式論理は單なる思惟の問題であるにしても、眞理の論理はつねに思惟と直觀の問題である。カントが一般論理と先驗論理とを區別して、一般論理の對象は思惟の分析的手續であるに反して、先驗論理
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