ばれた。何故に彼等によつて認識論といふ特殊な學問が初めて建設されたものの如くに見られるのであるか。一般的にいふと、それは彼等が認識の批判的研究を開始した人々であるからである。單に認識に關する理論ならばそれ以前にもないではなかつた。それは實にギリシア哲學以來のものである。しかし彼等以前の哲學における認識の理論はすべて十分に批判的でなかつた。それは獨斷論(Dogmatismus)であつたといはれる。獨斷論と批判的研究との相違は、ロック、ヒューム及びカントが認識の限界の問題を意識的に提出したといふところに、最も簡單に、最も明瞭に、現はれてゐるであらう。獨斷論は人間の認識は無限に可能であり、從つて實在そのものを認識し得るといふ立場である。それ故にこのやうな立場では、認識の理論が説かれるとしても、それは實在に關する理論即ち形而上學(Metaphysik)と結びついて説かれてゐるのがつねである。古代のプラトンの哲學、近世のライプニツの哲學などはそのよい例であらう。認識の理論が特に認識論といふ含蓄ある意味において成立するに到つたのは、形而上學に對する不信が一般的になつたことによるのである。近代の自然
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