を用ゐて物を言ひ表はすのである。第二の方法は物を内から、直觀的に見る。このとき外面的な觀點は悉く退けられて、なんらの符號も用ゐられることなく、我々は直接に物と合一する。第一の方法は、どのやうに精密になるにしても、即ち、如何に多くの觀點を次から次へととり、また如何に多くの符號を使ふにしても、要するに物そのものの外廓を廻つてゐるばかりであつて、物の絶對的状態を把握することができぬ。ひとり第二の、直觀の方法によつてのみ我々は物そのものの眞相に味到し得る。二つの方法の相違はちやうど或る町を種々の方面から寫した寫眞とその町の實見との相違である。寫眞をどれ程多く集めても町そのものの眞の知識は得られないであらう。第一の方法は科學の用ゐる概念的方法であり、第二のものは絶對の學問たる哲學の方法である。ところでベルグソンは科學的もしくは概念的知識についてプラグマティズム的見解を抱いてゐる。我々の知識は主として行爲にとつて有用なもの、利用し得べきものの製作を目的とすると看做されてゐる。知性は道具、殊に道具を作る道具を製造する能力である。概念的知識は、ベルグソンに從へば、純粹に知るために知るのではない。我々の
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