知力はつねに或る利益のために、或る實際上の要求を滿足させるために知らうとしてゐる。それはいつでも行爲との關係において物を見てゐる。それだから概念といふものは我々が物に對して行爲するための一定の型であつて、我々の行爲及び態度の種々の種類があるだけ、それだけの種類の概念的方向があるといふことができる。概念は行爲にとつてその物が如何なる意味を有するかを表はすためにその物に貼りつけられたレッテルの如きものである。
 いまプラグマティズムの意味を正しく評價するために、とりわけ次の二つの點に注意することを忘れてはならない。第一に、ジェームズやベルグソンは認識の問題をただそれだけとして取扱ふことなく、それを具體的な存在の問題の中に排列しようとしてゐる。ジェームズはこのことを彼の根本的經驗論(radical empiricism)と稱する立場によつて意圖してゐる。ここにいふ經驗は自己包括的な一の全體である。知るといふことにおいて、知るものと知られるものとは共に經驗の部分である。從來の認識論の根本概念である主觀客觀はこのやうに見られねばならぬ。それみづから經驗の部分であるところの觀念は、我々を助けて經驗
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