のである。自我はもはやなんらかの實體(Substanz)ではなく、主觀(Subjekt)である。主觀に對するものは客觀(Objekt)である。自我はあらゆる意味で客觀ならぬもの、却つてあらゆる客觀の根柢である。
カントの認識論の中心問題は、如何にして認識が對象または客觀に關係し、對象性或ひは客觀性を得るかといふことにあつたのである。このことは次の二つの前提のもとにおいてはいづれも不可能である。第一に、もし對象が主觀の外にそれ自體において獨立に存在し、我々の認識がただこれに從はねばならないのであるとすれば、我々の認識は到底對象性をもつことができない。なぜならこの場合認識は對象の模寫を意味するほかなく、しかるに主觀における模寫が客觀そのものと一致してゐるか否かといふことを確かめ得るところの基準はこのとき見出されない。我々は單に表象と表象とを比較してその間の一致または不一致をいひ得るのみである。ひとつの表象と物そのものとを比較することは、物そのものがまたひとつの表象でない限り不可能であらう。第二に、もし我々の認識がすべて經驗から(a posteriori)來るものであるとすれば、我々の認識
前へ
次へ
全95ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング