識の如きもいまだ十分な意味においては認識とはいひ得ぬとした。なぜならそれは經驗に關はるものでないからである。彼の認識論の問題の中心は經驗にあつたのである。第二に、そして最も決定的なことは、次のことである。カント以前の思惟は、ライプニツも含めて、すべて世界の思惟であつた。それは自我無き世界哲學(Welt−philosophie)であつた。神を把捉しようとする試みでさへ、神を一の自我無き實體、一の存在するイデアとすることに到達したまでに過ぎぬ。それは神を自我の深みに求める代りに、神をひとつの世界に、此方の世界の外にあるとはいへ、なほ彼方の世界においたまでである。シェリングがライプニツの神の概念についていつてゐる、ライプニツにおいてはそこにあるすべてのものは非我である、一切の否定以外のあらゆる實在性を結合してゐるところの神ですらがさうである、批判的體系に從へば、自我がすべてである、と。まことに批判的體系といはれるカントの哲學の中心は自我であつた。ここに世界哲學との對立において自我哲學(Ichphilosophie)が生れた。自我を自我ならぬすべてのものに對立させることはカントによつてなされた
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