に役立つものである、判明な表象とはその個々の要素に至るまで、このものの結合に至るまで、明晰であるところのものである。いま永久眞理もしくは幾何學的乃至形而上學的眞理と呼ばれるものは明晰にして且つ判明である。これに反して事實眞理は明晰ではあるが判明ではない。第一のものにはその反對は不可能であるといふ確信が結びついてゐるけれども、第二のものにおいてはその反對が考へられ得る。前者においてはその直觀的確實性は矛盾律にもとづき、後者においてはその事實的現實性によつて保證された可能性はなほ充足理由律に從つての説明を必要とする。ところでライプニツはこのやうな差別はただ人間悟性の不完全にのみ關係すると考へた。合理的眞理においては我々はその反對の不可能を明視する、經驗的眞理においてはさうでなく、我々は現實の認定に滿足しなければならない。しかし後者にしても物の本性のうちに(in natura rerum)あるのであつて、神の悟性にとつてはその反對は不可能であるやうに基礎附けられてゐるのである。このやうな考へ方とは違つて、カントにとつては固有の意味において認識といはるべきものは經驗的認識であつた。彼は數學的認
前へ 次へ
全95ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング