いて明晰にして、且つ判然と限定されてゐるものをいふ。この意味において明晰判明であり、その明證がいかなる他のものからも導かれるのでなく、專らそれ自身において基礎附けられてゐるものが元來、彼の生具觀念と稱するものであつたのである。第二、明證をもつて眞理の基準とするのは根本的には知覺説として特色づけられることができる。しかるにここにいふ知覺はもとより感性知覺のことではない。デカルトは知覺に二つのものを、感性からの知覺(perceptio sensu)と知性による知覺(perceptio ab intellectu)とを區別した。明證を伴ふのは明かに後のものであつて、それはギリシア人がヌースといつたものにほかならぬであらう。アリストテレスはヌース即ち理性は知覺の如きものであるといつてゐる。かやうな理性的な知覺において事物の本質即ちイデアは十全に與へられ(〔ada:quat−gegeben〕)、かやうなものにして初めて明證的に措定されることができ(evident−setzbar)、そのやうなものが眞理であるのである。いはゆる合理論的な模寫説の本來の意味はここにおいて明かであらう。
 經驗論的な模
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