寫説も一種の知覺説であることには變りはない。しかしここでは知性的な知覺でなくて感性的な知覺が問題になる。それは二つの場合において問題となつてゐる存在が異るためである。一はあの叡智的世界を、他は感性的世界を認識の對象として定立する。先に述べたやうに、ヒュームは諸印象が直觀的な確實性をもつてゐるとした。これは經驗論的な認識論の根本前提であらう。しかるにこの根本前提が既に疑はしい。なぜならそこでは純粹に内在的な立場に立つことが許されてゐないからである。それのみでなく、感性的な直觀において與へられるのはつねに個々のものであり、しかるに我々の知識はつねに普遍的な、必然的な關係の把捉を求めるのである。このものは何處から來るのであるか。感性知覺において與へられる諸内容と共におのづからまたその一切の關係が與へられると考へるならば、經驗論は感覺論(Sensualismus)となる。感覺論はあらゆる認識はただ外的な、感性的な知覺からのみ由來すると説く。それは意識における諸要素の單なる共在から認識においてこれらのものの間に存在するすべての關係をも導き出さうとする。それは諸内容の間にどのやうな關係が妥當し得ま
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