、特にすぐれた意味における認識の作用と看做すことによるのである。けれども今日知性的な直觀を優越な認識の作用と考へる場合にもなほ道徳的條件を認識のために必要な前提として考へないといふことは何によるであらうか。我々はこの場合デカルトの哲學の劃期的な意義に思ひ及ばなければならぬ。デカルトにおいて有名なのは彼の懷疑である。すべてのものについて疑ふべきである(de omnibus dubitandum)といふことを彼は方法とした。懷疑といふのは動かし難いものを搖り動かし(eversio)、迫り來るものを押しやる(remotio)ことである。私は極めて自然に私の周圍の物が現實に存在することを知つてゐる。感官を通して受け容れられる世界は私の意志の左右し得ぬものである。いま私が煖爐に近づくとき、私は欲するにせよ欲しないにせよ熱を感じなければならず、從つて熱の感覺が私とは違つた物體、私の前の煖爐から來ると考へざるを得ない。同じやうに私はこの煖爐に向つてゐる私の存在することをいはば自然的衝動によつて信じてゐる。懷疑は我々の自然的な態度において動かし難く思はれるこのやうな現實の存在を搖り動かさうとする。懷疑
前へ 次へ
全95ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング