は、しばしば誤つて解されるやうに、定立に對する反定立もしくは肯定に對する否定ではない。むしろそれは、デカルトによると、ひとつの假定(suppositio)であるに過ぎない。私は私の單純な、原始的な體驗に現はれる世界に對して、そのあるがままに任せておきながら、しかもその固有の力を失はせることができる。そのために私は暴力を用ゐることを要せず、それの虚僞であるのを示すことも不要である。むしろ私は私に力をもつて迫つて來る存在をそのままに押しやつて、これに對して同意することを差し控へねばならぬ。ところで懷疑が方法的意義を得るためには、懷疑は一般的に遂行されなければならない。しかし次に懷疑はまた秩序をもつて遂行されなければならない。方法的な懷疑は、疑はしく見える個々のものを一々吟味するといふ如き報いられぬ仕事をやめて、かやうなものの基礎と原理とに向ふことを我々に要求する。更にこれらのものについても我々を段階的に導いてゆかなければならない。デカルトは驚くべき確かさをもつてこの段階を辿つてゐる。彼の懷疑の最初の對象となつたのは一般に感官と關係する存在、一は感官から(a sensibus)直に受け取られ
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