知性的な直觀を、經驗論は感性的な直觀を、かやうな優越な作用であると考へる。そしてこれらの作用はそれぞれ認識の源泉であると看做されてゐる。しかるにかやうな考へ方は近代の認識論の或るものによつて非難されるところのものである。それは要するに認識の起原の問題にかかはり、そして認識の起原の問題は畢竟心理的發生的な問題であつて、認識の本質にはかかはりのないことであるといはれる。しかしながら我々はこのやうな認識の起原の問題が實に認識の本質の問題に密接に關係してゐることを認めざるを得ないであらう。なぜならそこで問題になつてゐるのは、我々の如何なる作用が特に優越な認識の作用であるかといふことであり、そしてこれは如何なる存在が特にすぐれて認識の對象と見られるかといふことと内面的に結び附いてゐることであるからである。
 知性的な直觀を優越な認識の作用と見た人々が認識のための道徳的條件について語つたことは、さきに記しておいた通りである。しかるに近代の認識論はもはやかやうな條件について何事も考へようとはしない。このことは、それが一方では直觀的ならぬ作用を、そして他方では直觀的なものを考へる場合にも感性的な直觀を
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