ものがそれぞれ異つてゐるのである。そしてそれに應じてまた人間において優越な意味で認識の作用としてとらへられるものが兩者において相異つてゐる。一は知性的な直觀を、他は感性的な直觀をかやうなものと看做してゐる。しかしながら、近代の認識論の初めとせられる經驗論とそれ以前の合理論との考へ方における重要な相違は、前者が認識の問題から出發して存在の問題へ行くのに反して、後者においては認識の理論が存在の理論のうちに排列されてゐるといふことである。

    二 直觀と判斷

 ギリシア人は既に人間の知的な作用を感性(〔aisthe_sis〕])、悟性(dianoia)及び理性(nous)の三つの種類に區別してゐる。これらのうち感性知覺は言ふまでもなく直觀的であり、理性も思惟ではありながら直觀的なものと考へられた。ひとり悟性的思惟は直觀的(anschaulich)でなく、却つて比量的(diskursiv)である。このやうな見方は後の哲學の歴史を絶えず支配してきた。ところで模寫説と呼ばれるものはいつでも、なんらかの意味での直觀的な作用を特にすぐれた認識の作用として取り上げることを特色としてゐる。合理論は
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