が實在的必然性として把捉されたものが、因果の觀念にほかならない。しかるにもしこのやうなものであるとすれば、表象内容の因果的結合は客觀性を有することなく、單に蓋然性を有し得るに過ぎないであらう。ひとつの現象が現はれるとき、我々はその習慣的な隨伴現象を豫期し、このものが實際にまた現はれるであらうと信ずるに過ぎないのであつて、因果の普遍妥當的な認識はあり得ないこととなる。これヒュームの認識論が遂に懷疑論(Skeptizismus)に陷つたといはれる所以である。
さて合理論と經驗論とが、いはゆる模寫説の二つの形態として、相異る方向をとつてゐることは明かであらう。プラトンはイデアの世界とゲネシスの世界とを區別した。この區別はあの叡知的世界(mundus intelligibilis)と感性的世界(mundus sensibilis)といふ名をもつてその後永く思想の歴史のうちにはたらいてゐる。合理論と經驗論との兩者が、一は主として叡智的世界に、他は主として感性的世界に、その認識の對象を求めてゐることは論ずるまでもないであらう。言ひ換へると、兩者において認識の對象として優越な意味で存在と考へられる
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