説といはれ得ないことは明かであらう。彼は實體を物と心とに分ち(いはゆる二元論 Dualismus)、眞理は第一次的には心のうちに座をもつものとし、この内なるものに向けられた自然的光が眞なる認識の作用であると考へたのである。認識が彼においてよし模寫を意味したとしても、それはただ一定の對象について、しかもただ一定の作用によつて可能であると考へられたのである。
 このやうにしてカント以前の認識理論を一般に模寫説と見ることができるとしても、我々はその深い動機を理解することを怠つてはならない。その意味については後に述べることとして、ここになほ近代の認識論に對して、そのいはゆる模寫説に關して概括的に次のやうに言つておきたい。第一に、この考へ方は認識の理論を存在の理論のうちに排列する。眞理も第一次的には存在そのものに屬し、第二次的に人間の認識の性格であるに過ぎない。從つてそこでは虚僞は單に缺乏(privatio)と見られるのがつねである。デカルトやスピノザなどもそのやうに考へてゐる。そしてスピノザはいふ、恰も光が自己自身と闇とを共に顯はにする如く、眞理は自己自身と虚僞との標準である(Sane sic
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