によると、このやうな生具觀念こそ本來の認識の源泉である。他の箇所では彼はまたかうもいつてゐる。すべて我々によつて表象されたものを、我々は、物或ひは物の屬性としてか、もしくは思惟の外部ではなんらの存在ももたぬところの永久眞理としてか、見る。いま我々が無から或る物が生ずることは不可能であるといふことを認める場合、そのとき、無からは無が生ずるといふ命題は存在する物或ひは物の状態ではなく、むしろ我々の精神のうちに座をもち、共通概念(notiones communes)または公理(axiomata)と呼ばれるところの永久眞理である。ここで共通概念といはれたのは、一方それが物的なものと心的なものとに共通なものの概念であることを意味するばかりでなく、他方それがすべての者によつて等しく認識されるものであることを意味してゐる。それはあらゆる意識に具はる、この意味で共通な思想である。かやうな共通概念を認識する作用はデカルトによつて自然的光(lumen naturale)と呼ばれた。この場合、自然的光が本來の認識に十全な作用とされるのである。もしかくの如くであるとすれば、デカルトの認識理論が不十分にしか模寫
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