る。けれども、經驗は彼において心理的主觀的なものではなく、客觀的歴史的に規定された存在である。從つて、意識は彼にとつて經驗と等しくない。彼は意識を單に現實的な生ける諸個人の意識として考察する。即ち意識は歴史において活動する人間の存在のひとつの契機に過ぎず、それ自身社會的歴史的に規定されてゐる。マルクスもまた實踐を強調してゐる。けれども彼のいふ實踐は主觀的な心理的な活動ではなく、却つてそれは勞働として、現實的な人間の歴史的社會的に規定された活動である。そしてマルクスは、意識が存在を規定するのでなく、存在が意識を規定するのである、と主張する。即ち他のものが觀念論の立場にあるに對して、マルクス主義は唯物論の立場に立つてゐる。これは最も決定的な相違である。第二に、マルクス主義はその唯物論的基礎のために、必然的に感覺乃至感性をその認識理論において重んじなければならない。しかるにこれまでの唯物論は、經驗論もまた、感性を單に受動的な、受容的なものとのみ解してきた。そこでマルクスは記してゐる、あらゆる從來の唯物論の主缺陷は、對象、現實、感性がただ客觀の或ひは直觀の形式においてのみ把握されて、感性的・人間的な活動、實踐として把握されず、主觀的に把握されてゐないところにある。活動的な方面は抽象的に唯物論との對立においてむしろ觀念論(このものはもちろん現實的な感性的な活動そのものを知らないのであるが)によつて展開された。しかるにマルクスは感性を能動的な、實踐的な性質のものとして把握する。そしてこれは感性が彼において單に心理的な作用と考へられず、人間の存在のひとつの現實的な、具體的な存在の仕方と見られることによつて可能であつたのである。第三に、意識を歴史的社會的に規定されたものと解し、且つ存在が意識を規定するのであると説くことによつて、マルクス主義は認識の社會的規定性、進んでその階級性を主張する。認識は社會的意識として必然的に社會的存在を反映してゐる。そして人間の社會的存在を最も包括的に表現するところの名は階級であると考へるのである。

    五 認識論

 認識論といふ言葉は今日多くの人々にとつて不思議な響をもつてゐる。それは何か極めて特別なものであり、しかしそれは何か非常に難しいものであり、しかもそれは何か恐しい力をもつたものであるかのやうに思はれてゐるのである。誰もそれに近づかうと
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