成することによつて因果的に説明しようとするが如きはそれである。かやうな心理學に對してディルタイは記述的竝びに分析的心理學(beschreibende und zergliedernde Psychologie)を打ち樹てようとした。このものの目標は精神生活の構造聯關である。この學問はそれ自身において基礎附けられてゐる。自然現象においては聯關は後から與へられるものであるに反して、精神生活においては聯關そのものが根源的に、第一次的に與へられてゐる。ここでは構造が直接に與へられてゐるのであるから、この領域の分析と記述を仕事とする心理學は動かし難い、疑ふことのできぬ基礎をもつてゐる。そこに自然認識と心理學的認識とにおける方法上の根本的な差異の根柢が存するであらう。前者の方法が説明(〔Erkla:ren〕)といふ構成的なものであるに反して、後者の方法はむしろ分析的な理解(Verstehen)の方法である。
 マルクス主義の認識論もまた一見プラグマティズムであるかのやうである。哲學者は世界を種々に解釋しただけだ、世界を變革することが問題であらうに、といつたマルクスは、その認識理論において實踐の要素を甚だ重要視した。彼はいふ、人間的思惟に對象的眞理が適合するか否かの問題は、なんら理論の問題でなく、實踐的な問題である、と。實踐において人間は眞理を、即ち彼の思惟の現實性と力、此岸性を證明せねばならぬ。思惟、實踐から游離された思惟の現實性或ひは非現實性に關する爭は、全くのスコラ的問題である。一個のプディングの存在は、これを食ふことによつて確證することができる。このやうに眞理の基準を實踐に求める點でマルクス主義はプラグマティズムに類似してゐるやうに見える。しかしながら我々は次の點に注意することが肝要である。第一に、存在の概念における本質的な差異がそこに横たはつてゐる。ジェームズのいふ經驗は心理學的なものであり、意識の流にほかならない。ベルグソンにおいても純粹持續はその本質において意識的なものである。そしてこれら二人の思想家においては存在の歴史性といふことについての理解が缺けてゐる。ディルタイは生の歴史性について誰よりも明瞭に認識した。人間の歴史的性質は彼のより高い性質一般である、と彼は語つてゐる。しかし彼にとつても生は本質的に意識的なもの、精神生活として把握された。マルクスは經驗を重んず
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