見方を越えるにある。
 ディルタイはあらゆる存在は我々の體驗の事實として與へられると考へる。およそ私にとつてそこに在るものは私の意識の事實であるといふ最も一般的な條件のもとに立つてゐる。如何なる外的な物も私にとつてはただ意識の事實或ひは過程の結合として與へられてゐるのである。ディルタイはこのことを現象性の原理(〔Satz der Pha:nomenalita:t〕)といふ言葉で表はしてゐる。ところでこの原理は、從來の經驗論的また一部分は先驗論的認識論がしたやうに、主知主義的に解釋されてはならない。單なる表象的思惟的活動のうちに、存在の最高の制約が與へられてゐるのではない。それは衝動、意志及び感情の中に含まれる聯關のうちに横たはつてゐるのである。外界の實在性といふ如き問題もここから解かれることができる。もし我々にして單に表象的な主體であるならば、我々にとつて外界はどこまでもただ現象であるに過ぎないであらう。我々の意慾、情感、表象の全體的な聯關において外界の實在性は基礎附けられるのである。ディルタイはカントの意識一般の概念を抽象的、構成的であるとして、これを斥ける。カントの認識主觀の血管の中には現實の血が流れてゐない。單なる思惟活動としての主觀は、表象感情意志の作用の悉くを自己の契機として含む現實的な、全體的な生によつて置き換へられなければならぬ。學問の原理は生そのもののうちに横たはつてゐる。この意味でディルタイは彼の認識論は自省(Selbstbesinnung)の立場に立つものであるといつてゐる。彼はこのやうな思想にもとづいて特に歴史の問題を解かうとした。歴史は彼によると生または精神生活の表現にほかならぬ。從つてフンボルトのいつたやうに、人間歴史においてはたらいてゐる一切のものは人間の内面においてもはたらいてゐる。それ故にまた精神生活に關する研究即ち心理學は、あらゆる歴史科學にとつて基礎でなければならない。かくの如き心理學はもとより自然科學的な心理學であることができぬ。自然科學的心理學は説明的或ひは構成的心理學(〔erkla:rende oder konstruktive Psychologie〕)として特性附けられる。それは精神現象を一義的に規定された要素の一定數によつて因果關係に從屬させようとする。例へば、一切の精神現象を感覺及び感情といふ二つの級の要素をもつて構 
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