りでなく、よし可能であるとしてもこれを行ふといふことは極めて不經濟であるから、我々はひとつの表象を特に選んで他の多くの表象の代表者にする。かくして選ばれた個物は他の表象を代表する限り同時に一般的でなければならぬ。一般的なものはこのやうにして思惟經濟の必要から生じた人工概念に過ぎない。この種の考へ方とは違つて、ジェームズのいふ經驗は相互に獨立な感覺要素の寄り集つたものではなく、それみづからにおいて根源的な關係を含む諸感覺の結合である。關係も感覺と同じく根源的に與へられる直接の經驗に屬してゐる。ベルグソンにおいても純粹持續の各々の瞬間は過去を含み未來を孕むと考へられてゐる。
 これら二つの思想はまたディルタイに共通してゐるであらう。ディルタイによると、感覺の多樣は結合の意識から離れては單に表象され得ないばかりでなく、むしろ存在し得ない。シュトゥンプもいふ如く、諸感覺のうちには直接にまたその秩序が内在的な特性として共に與へられてゐるのでなければならぬ。我々の經驗の内容の内における秩序或ひは形式の内在といふことは經驗の事實そのものの示すところである。比量的な思惟作用の第一次的な形式の根源を尋ねて、我々は知覺のうちに含まれ、このものの知的性質を形作つてゐるところの諸過程にまで溯ることができる。このやうな諸過程は比較、區別、結合、分離の如きものである。これらのものは基本的な論理的諸作用である。一般的にいつて、私がその背後に溯り得ぬ生そのものは、それにおいてやがて一切の經驗及び思惟が顯はになるところの諸聯關を含んでゐる。そして實にそこに認識の全體の可能性にとつて決定的な點が横たはるのである。生と經驗のうちに、思惟の諸形式、諸原理及び諸範疇において現はれる全聯關が含まれる故にのみ、この全聯關が生と經驗において分析的に示され得る故にのみ、現實の認識は存在するのである。もし現實的に表象過程が思惟過程から全く區別されてゐるとしたならば、論理的諸形式及び諸原理の單なる分析でさへもがすでに不可能であらう。表象と思惟とは二元的に對立するものでなく、そこには一つの發生的な過程がある。形式論理學は表象と思惟といふ我々の認識根源の二元性を前提してゐる。ディルタイが分析的論理學(analytische Logik)と稱するところの論理學の目的は、現實の經驗の構造聯關を分析することによつてかかる二元的な 
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