omistisch)に把握されてゐないことを特色としてゐる。從來のイギリスの經驗論哲學の基礎にはいつでもヒューム流の心理學が横たはつてゐた。ヒュームにおいて經驗はばらばらの感覺的要素から構成された寄木細工に過ぎない。この經驗要素たる印象は物理的な原子のやうに各自獨立の存在と明確な輪郭とをもつてゐる。そしてこれらの印象の色褪せた模寫であるところの觀念も同じやうに相互に分立的である。諸印象竝びに諸觀念の間になんらかの關係があるとすれば、それは單に考へられた關係であつて、實在するところの關係ではない。因果關係の如きも屡々反覆して繼起するところの現象を期待する精神の後天的な習慣の結果である。等しくプラグマティズム的な見方を含む思惟經濟(〔Denko:konomie〕)の學説は、まさにこれに類する考への上に立つてゐる。思惟經濟説はマッハやアヴェナリウスなどによつて唱へられ、主として自然科學者の間に追從者をもつてゐる。認識の目的は最も經濟的に思惟するにある。マッハはいふ、學問は最小限の思惟消費をもつて能ふ限り完全に事實を記述することを目的とする。キルヒホフの有名な言葉によると、自然科學の任務は、自然において行はれる現象をできるだけ完全に、できるだけ簡單に、記述することである。クライビヒも、思惟作用は、思惟對象の最大量が思惟内容の最小量をもつて表象され、評價され、推論式で組み立てられるやうに、計畫的に行はるべきである、といつてゐる。ところで直觀は單に一々の個物を捉へ得るにとどまる。概念によつて一擧にして多くの事物の考察に達するといふことは思惟の仕事である。個物の直觀に代へるに概念の思惟をもつてすることによつて我々は一々の個物を相手にするといふ不經濟から免れることができる。しかしそれと同時に概念を思惟することにおいて我々のもつものはつねに個物の直觀でなければならない。もしさうでないならば、我々の認識は事實を離れることになつてしまふであらう。しからば直觀的個物から如何にして概念的な思惟に到達し得るのであるか。思惟經濟説の見方によると、我々はひとつの個物によつて他の多くのそれと類似の物を代表させるのである。存在するのはただ直觀的な個々の表象のみであつて、あらゆる思惟はそれにおいて或ひはそれを通して行はれる。そしてこれらの個々の表象をすべてに亙つて考へるといふことは實際に不可能であるばか
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