間學の對立は認識理論にとつても決定的な意味をもつてゐると思はれる。
 理性人間の人間學はもとギリシア市民の發見したものである。それは人間の本質をヌース或ひはロゴスと見る思想である。それはアナクサゴラス、プラトン、アリストテレスなどによつて概念的に、哲學的に形作り上げられた。後にそれはキリスト教と同化し、かくてヨーロッパの思想を永い間、強力に支配するに到つた。この人間學は人間と動物一般とを決定的に區別する。しかしそれは人間と動物とを比較して、その形態學的、生物學的乃至心理學的特徴を取り出し、これによつて兩者を區別するといふ如きことではないのである。その區別はむしろ先驗的に行はれる。それは既に前提された神の思想、及び人間の神への相似(Gottebenbildlichkeit des Menschen)の説の歸結である。生物學的にはギリシア人は種の不變を信じた。不變な人間を人間たらしめてゐるものを彼等は人間の形相(eidos)と考へ、これは永遠なロゴスと解せられた。人間におけるヌース(理性)は、この世界を動かし、その秩序を作つてゐるところの神的なヌースのひとつの部分機能である。いま我々はこのやうな人間學の主要思想を次のやうに※[「纏」の「广」に代えて「厂」、54−14]めることができる。一、人間は自然の如何なるものも有せぬ神的な力をみづからのうちに具へてゐる。人間は理性によつて他のすべてのものから自己を區別する。二、人間におけるこの力は、世界を世界に、コスモス(秩序ある世界)に永遠に形作つてゐるところの力と、存在論的に、或ひはその原理において、同一のものである。まさにそれ故に人間におけるこの力こそまた世界の認識のために眞實に適應せる力を有するものである。三、ロゴス即ち人間理性としてのこの力は、人間が動物と共通に具へてゐるところの衝動や感性の助けを借りることなしに、自己のイデア的な諸内容を實現し得る力を有してゐる。四、この力は歴史を超越し、民族とか身分とかの別なく、つねに恒常である。それは絶對に不變である。
 この人間學は、デカルト、スピノザ、ライプニツ、カント、その他において、その思想の差異にも拘らず、根本ではすべて同じである。右の四つの點のうちただ一つについてヘーゲルが變革を行つた。他の三つの點ではヘーゲルも同じ思想であつたばかりでなく、むしろ彼は人間的理性と神的理性と
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