觀への還元をフッサールは間主觀的還元(intersubjektive Reduktion)と稱してゐる。なほカントとの差異は次の點にも認められる。フッサールの説はもと知覺説である。これに反してカントは認識は判斷であると考へる。そこで前者においては純粹な受動性が、後者においてはむしろ純粹な能動性が重んじられてゐる。またこのことと關係して、前者において問題となつてゐるのは主として、あのライプニツの區別に從へば、永久眞理の世界であるに反して、後者においてはむしろ事實眞理の世界が問題となつてゐるのである。カントの關心は事實眞理の普遍性と必然性とを基礎附けることに存したのである。フッサールでは永遠な本質存在(Sosein)が問題であるに對して、カントでは經驗的な現實存在(Dasein)が問題であつた。

    四 認識と生

 我々は認識に關する諸理論が一定の構造を示してゐるのを見てきた。どのやうな存在が問題となつてゐるかといふことに、どのやうな心的作用がその認識にとつて根源的と考へられるかといふことが相應してゐる。更にそれらのことに認識そのものの理念が相應してゐる。例へば知覺説においては眞理の概念にとつて明證の概念が決定的な意味をもつてゐる。しかるにどのやうな存在が問題になるかといふことは人間がどのやうな態度に現實的に規定されてゐるかといふことによつて決定される。例へば實踐的な態度にとつては主として時間的空間的に限定された存在が問題になる。これに反して觀想的な態度にとつては空間や時間を超越する本質またはイデアが主として關心される。なほ我々は認識の理論でさへも絶えずその根柢に人間の存在についての一定の解釋即ち一定の人間學をもつてゐるといふことを注意しておいた。ここでは先づこのことに多少立入つてみよう。
 あらゆる理論は、從つて最も無前提的であると考へられる認識理論でさへもが、つねに人間の自己解釋の一定の仕方をその基礎に含んでゐる。このものはいはば自明の前提として、多くの場合無意志的に、すべての理論の根柢に横たはつてゐるのである。人間は彼等の歴史において種々の仕方で自己の本質を解釋してきた。そのうち二つのものは特に重要である。我々はその一を理性人間(homo rationalis)の人間學と、他を制作人間(homo faber)の人間學と名附けることができよう。これら二つの人
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