通に外界を客觀と看做してゐる。外界とは、我々の理解するところでは、自己以外の空間中にある世界を意味する。そしてこの外界に對立させられるものは我々の身體である。ここにいふ身體は、その中にはたらくと考へられる精神をも含めていふのである。それだからこの場合には我々の精神をも包括する身體が主觀であり、この身體を圍繞する空間的世界が客觀となる。第二に、更に身體と、これを我々に意識させる表象とを區別してみると、我々の身體もまた外界に數へられることができる。かくて自己の意識から獨立に存在すると考へられる一切のもの、即ち全體の物理的世界及びすべて他人の精神生活などは外界に含め得る。この場合外界に屬しないものと見られるのは自己の精神的自我があるばかりである。このとき自己の意識とその内容とが主觀となり、客觀とは自己の意識内容以外の、或ひは意識そのもの以外のすべてである。第三に、更に第二の場合において主觀そのものであつたところのものを主觀と客觀とに分析することができる。ここにいふ客觀とは自己の意識内容、即ち自己の表象、知覺、感情或ひは意欲等のものであり、この内容を意識するものが主觀となるのである。ところでリッケルトは眞に認識主觀と考へらるべきは第三のものをどこまでも推し進めたものでなければならぬとした。それは客觀となし得るものは盡くこれを客觀となし、如何にしても客觀とすることのできない最後の主觀である。それは如何なる意味でも存在でなく、むしろ單に一の概念、一の限界概念(Grenzbegriff)である。リッケルトはカントの意識一般をかく解した。それは純粹に論理的主觀であり、リッケルトによつて判斷意識一般(〔das urteilende Bewusstsein u:berhaupt〕)として規定される。我々はここにカントにおける自我の内面性或ひは精神性が全く失はれてしまつたのを見出すのである。
ついでながら我々はカントの自我或ひは意識一般をフッサールのいふ純粹意識の如く解することを避けねばならぬ。純粹意識はフッサールにおいて超個人的なものでなく、また全く形式的なものでもなく、内容に充てる個人的主觀性である。そして彼によると、世界の客觀性はかかる純粹意識のただ一個によつて還元し盡すことはできぬものであつて、これを殘りなく還元するには多數の主觀の共同的還元に俟たなければならない。かかる多數主
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