の統一である。知的直觀は人間のものではなく、ただ神のものである。もとより感性と悟性とは人間において分れてゐるにせよ、さきに示されたやうに、兩者はここでも互に他を指し示し合ふことによつて、その隱された共通の根源を暗示してゐる。かやうにしてカントにとつても、既にプラトンやデカルトなどについて述べておいた如く、人間は一個の中間的存在である。人間は叡智的なものと感性的なものとの中間者である。ただカントにおいては神は深く内面化されてゐる。人間を神そのものの位置にまで進めたのは、或ひは神そのものを自我として、絶對的自我として敢て把握するに至つたのは、フィヒテやヘーゲルの哲學であつた。かくて彼等においては、カントのばあひ人間的認識の限界の外におかれた物自體はもはや解消されてしまふことができた。彼等の哲學は、一言でいふと、知的直觀乃至直觀的悟性の哲學である。
カントの哲學は現代に對して最も決定的な影響を與へた。新カント學派の有力な諸傾向はそれを主として認識論上の論理主義(Logizismus)の意味に徹底して解釋して自己の哲學を立てようとした。いまかかる哲學の歸結をひとつの例をもつて示しておかう。前にいつたやうに、リッケルトは認識の對象を價値であると看做した。カントにおいては認識の對象はどこまでも經驗であり、從つて存在であつた。しかるにリッケルトは存在の概念を全くぬきにして認識の對象を規定する。カントのいふ認識の對象性は、一方そして根源的には、認識は存在としての對象に關係するといふことを、そして他方その論理的意味として認識の普遍性と必然性とを意味した。從つてそれは單に論理的な意味のものでなく、却つて存在論的な(ontologisch)、むしろ論理的・存在論的な(logisch−ontologisch)意味のものであつた。カントが自己の哲學的立場を名附けたところの先驗哲學(transzendentale Philosophie)といふ語は、根源的にはギリシア語の ontologia(存在論)のラテン語譯なる philosophia transcendentalis と關係してゐる。しかるにリッケルトは對象性といふものを全く論理的な意味に解する。そして主觀の概念についても同じことが行はれる。リッケルトは主觀の概念を三樣に區別してゐる。これに客觀の三樣の概念が相應する。第一に、我々は普
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