て規定されてゐるところの體系である。
 ところでこのやうに經驗的對象界を構成すると考へられる意識は個人的な意識であることができない。もしさうであれば、認識は對象性即ち普遍性と必然性とをもつことができないからである。カントはそのやうな意識を意識一般(〔Bewusstsein u:berhaupt〕)と稱してゐる。これは自我とも呼ばれ、超個人的なものである。このやうな自我の概念は人間の存在についての一定の解釋の仕方を豫想して成立するであらう。それはルッターの宗教改革の精神の上に立つてゐるものと考へることができる。ルッターは神を人格の最も内面において見出した。人間が神と自由に、密接に交通し得るのは彼の人格の核心においてである。ひとは神を外に求むべきではなく、自己のうちに求むべきである。自己の精神のうちに神は宿つてゐるのである。個人の本質をかくの如く神的な超個人的なものとして把握するとき、自我は初めて對象界の構成者と看做されることができるであらう。尤もカントの自我は直ちに神と同一視さるべきではない。人間的認識の唯一の對象は彼にとつて經驗である。經驗を超越するところの物自體(Ding an sich)の認識は我々にとつては不可能である。蓋し認識はいつでも内容と形式との綜合であつて、形式は思惟の自發的な活動に屬するけれども、内容は思惟みづからの生産するものでなく、却つて思惟はこれを直觀に仰がねばならぬ。しかるに直觀は我々においてただ受容的感性的である。いまもし感性的ならぬ種類の直觀があるとすれば、このものにとつては範疇の助けによつてまた他の種類の諸對象が存在するであらう。しかしながらかかる人間的ならぬ直觀の諸對象は、この直觀がまた與へられた感覺諸内容をなんらかの仕方で秩序づけるにとどまる如きものであるとすれば、物自體ではなく、どこまでも單に現象であるであらう。しかるにもし受容的ならぬ種類の直觀、それ故に單に形式ばかりでなく、内容をも綜合的に生産するやうな直觀があるとすれば、このとき直觀の諸對象はもはや現象ではなく、物自體でなければならぬであらう。かくの如き能力はカントによつて知的直觀(intellektuelle Anschauung)或ひは直觀的悟性(intuitiver Verstand)と名附けられた。それは人間においては分離して現はれるところの二つの認識力、感性と悟性と
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