が實在的必然性として把捉されたものが、因果の觀念にほかならない。しかるにもしこのやうなものであるとすれば、表象内容の因果的結合は客觀性を有することなく、單に蓋然性を有し得るに過ぎないであらう。ひとつの現象が現はれるとき、我々はその習慣的な隨伴現象を豫期し、このものが實際にまた現はれるであらうと信ずるに過ぎないのであつて、因果の普遍妥當的な認識はあり得ないこととなる。これヒュームの認識論が遂に懷疑論(Skeptizismus)に陷つたといはれる所以である。
さて合理論と經驗論とが、いはゆる模寫説の二つの形態として、相異る方向をとつてゐることは明かであらう。プラトンはイデアの世界とゲネシスの世界とを區別した。この區別はあの叡知的世界(mundus intelligibilis)と感性的世界(mundus sensibilis)といふ名をもつてその後永く思想の歴史のうちにはたらいてゐる。合理論と經驗論との兩者が、一は主として叡智的世界に、他は主として感性的世界に、その認識の對象を求めてゐることは論ずるまでもないであらう。言ひ換へると、兩者において認識の對象として優越な意味で存在と考へられるものがそれぞれ異つてゐるのである。そしてそれに應じてまた人間において優越な意味で認識の作用としてとらへられるものが兩者において相異つてゐる。一は知性的な直觀を、他は感性的な直觀をかやうなものと看做してゐる。しかしながら、近代の認識論の初めとせられる經驗論とそれ以前の合理論との考へ方における重要な相違は、前者が認識の問題から出發して存在の問題へ行くのに反して、後者においては認識の理論が存在の理論のうちに排列されてゐるといふことである。
二 直觀と判斷
ギリシア人は既に人間の知的な作用を感性(〔aisthe_sis〕])、悟性(dianoia)及び理性(nous)の三つの種類に區別してゐる。これらのうち感性知覺は言ふまでもなく直觀的であり、理性も思惟ではありながら直觀的なものと考へられた。ひとり悟性的思惟は直觀的(anschaulich)でなく、却つて比量的(diskursiv)である。このやうな見方は後の哲學の歴史を絶えず支配してきた。ところで模寫説と呼ばれるものはいつでも、なんらかの意味での直觀的な作用を特にすぐれた認識の作用として取り上げることを特色としてゐる。合理論は
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