知性的な直觀を、經驗論は感性的な直觀を、かやうな優越な作用であると考へる。そしてこれらの作用はそれぞれ認識の源泉であると看做されてゐる。しかるにかやうな考へ方は近代の認識論の或るものによつて非難されるところのものである。それは要するに認識の起原の問題にかかはり、そして認識の起原の問題は畢竟心理的發生的な問題であつて、認識の本質にはかかはりのないことであるといはれる。しかしながら我々はこのやうな認識の起原の問題が實に認識の本質の問題に密接に關係してゐることを認めざるを得ないであらう。なぜならそこで問題になつてゐるのは、我々の如何なる作用が特に優越な認識の作用であるかといふことであり、そしてこれは如何なる存在が特にすぐれて認識の對象と見られるかといふことと内面的に結び附いてゐることであるからである。
 知性的な直觀を優越な認識の作用と見た人々が認識のための道徳的條件について語つたことは、さきに記しておいた通りである。しかるに近代の認識論はもはやかやうな條件について何事も考へようとはしない。このことは、それが一方では直觀的ならぬ作用を、そして他方では直觀的なものを考へる場合にも感性的な直觀を、特にすぐれた意味における認識の作用と看做すことによるのである。けれども今日知性的な直觀を優越な認識の作用と考へる場合にもなほ道徳的條件を認識のために必要な前提として考へないといふことは何によるであらうか。我々はこの場合デカルトの哲學の劃期的な意義に思ひ及ばなければならぬ。デカルトにおいて有名なのは彼の懷疑である。すべてのものについて疑ふべきである(de omnibus dubitandum)といふことを彼は方法とした。懷疑といふのは動かし難いものを搖り動かし(eversio)、迫り來るものを押しやる(remotio)ことである。私は極めて自然に私の周圍の物が現實に存在することを知つてゐる。感官を通して受け容れられる世界は私の意志の左右し得ぬものである。いま私が煖爐に近づくとき、私は欲するにせよ欲しないにせよ熱を感じなければならず、從つて熱の感覺が私とは違つた物體、私の前の煖爐から來ると考へざるを得ない。同じやうに私はこの煖爐に向つてゐる私の存在することをいはば自然的衝動によつて信じてゐる。懷疑は我々の自然的な態度において動かし難く思はれるこのやうな現實の存在を搖り動かさうとする。懷疑
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