在は意識内容に解消されてしまふ。ヒュームは我々の意識内容を印象(impression)と觀念(idea)とに區別した。一は原型的なものであり、他はこの原型的なものの模象である。一切の觀念はそれだから印象の模寫であり、印象の模寫によつて生ぜぬが如きなんらの觀念もなく、印象から汲み取られる以外の内容を有するが如きなんらの觀念もない。それ故に觀念の認識價値は印象における原型に從つて評價されねばならない。もしこのやうであるならば、諸觀念を關係させる我々の判斷の眞理は、我々がそこに諸觀念に與へる關係がその原型である諸印象の間にも支配してゐるといふことによつて、認識されるであらう。
 しかるにヒュームはみづから經驗論の批判者の位置にまで進まざるを得なかつた。元素的な諸印象の間の一定の關係はヒュームによると直觀的な確實性をもつて認識されることができる。その空間的或ひは時間的關係、即ち感覺内容の同時存在もしくは繼起の如きはこれである。感覺内容が現はれる空間的秩序は直接的にその内容と共に確實に與へられており、また同じやうに我々は種々の内容が同時的にもしくは相前後して知覺されてゐるかどうかについての確實な印象をもつてゐる。ところが我々の認識において極めて重要な役割を演じてゐる因果の認識においては事情が全く違つてゐる。因果の關係は知覺されない、それは個々の感覺のうちにもその諸關係のうちにも内容として見出されない。感覺の全領域においてその要求される原型として如何なる印象をも發見することのできぬこの因果の觀念は如何にして可能であらうか。因果の認識は、一定の結果が一定の原因によつて必然的に惹き起されるといふことの認識である。けれどもこのものによつて(propter hoc)といふことは知覺されず、知覺されるのはこのものの後に(post hoc)といふことだけである。我々は或るものが他のものの後に起るといふ時間的關係を知覺し得るのみである。この關係を一が他によつてといふ關係に轉釋することは、このやうに因果的に關係させられた表象内容そのものにおいては基礎附けられてゐない。そこでヒュームは次のやうに説明する。表象の同じ繼起の反覆によつて、それらが相繼いで起るのを見る習慣によつて、一の後には他を必ず表象し、期待するやうに内的に強要されるやうになる。一の表象が他の表象を喚び起すといふかやうな心理的必然性
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