。ロックによると、我々の認識にとつて與へられた材料は專ら感覺及び反省から來るところの單純觀念であり、我々の認識即ち我々の判斷もただこれらの我々の觀念に關係し得るのみである。肯定判斷においては一致せるものとして、否定判斷においては一致せざるものとして、相互に關係させられるのはただ我々の觀念であり得るのみである。ロックは知識(knowledge)或ひは認識は我々の諸觀念のこの一致もしくは不一致の把捉(perception)において成立すると定義してゐる。しかるに判斷はすべて言語上の命題をもつて表はされる。このやうにして眞理の二重の概念が生ずるであらう。ひとつの判斷の命題は、その言語がそこに思念された諸觀念相互の間に存するのと同じ肯定的もしくは否定的關係におかれてゐるとき、眞である。しかるにこのやうな名目的眞理についてばかりでなく、我々はまた我々の判斷の思想そのものの眞理について問ふであらう。この問に對しては、我々の觀念と我々の意識の外に實在する事物とが、言語と觀念との間に存するのと同じ關係におかれ、諸觀念の結合は、それが諸觀念によつて表はされた事物の結合に一致してゐるとき、眞であると答へられるであらう。けれどもこのとき、如何にして我々は我々の觀念と事物との一致を認識するのであるか、といふことは答へられない。ロックに始まるイギリスの經驗論の哲學はこの問を無用にする方向へ進んでいつた。先づバークレイは自體において存在する物體界の實在は間違つた想定に過ぎないとする。外的な事物も、それが存在する限り、觀念以外の何物でもない。存在するとは知覺されることである(esse est percipi.)、といふのは彼の有名な命題である。物體はただ表象の複合であり、その存在は知覺されることと同一であるならば、心の外に實在する物體を考へるのは誤でなければならぬ。しかしバークレイはなほ心的な實體を認めた。彼は自我をもつてそれに一切の表象活動が屬するところの實在であると考へてゐる。ヒュームは一歩を進めて、バークレイが櫻の實についていつたことは、自我についてもいはれ得るとした。我々の内的知覺も自我の實體についてなんら教へるのでなく、ただその諸活動、諸状態、諸屬性を示すのみである。これらのものをすべて取り去るならば、そこには自我について何物も殘存しない。自我もまた單に諸表象の束である。かやうにして存
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