一般的教養はディレッタンティズムにほかならない。一般的教養と専門とは排斥し合うものでなく、むしろ相補わねばならぬものである。ひとは固《もと》よりつねに一定の目的をもって読書するものではない。何か目的がなければ読書しないというのは読書における功利主義であって、かような功利主義は読書にとって有害である。目的のない読書、いわば読書のための読書というものも大切である。これによってひとは一般的教養に達することができる。一般的教養を得るという目的で一定の計画に従って読書することは勿論《もちろん》善いことではあるが、しかしかような計画は実行されないのが普通であって、むしろ若い時代から手当り次第に読んだものの結果が一般的教養になるという場合が多い。一般的教養は目的のない読書の結果である。けれども当てなしに読んだものが身に附いて真の教養となるというには他方専門的な読書が必要である。専門のない読書は中心のない読書であって、如何に多く読んでも何も読まなかったに等しいことになる。いわゆる読書家の陥り易い弊はディレッタンティズムである。

        三

 如何に読むべきかという問題は何を読むべきかという
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