所有することをいうのではなく、却《かえ》って、教養とはつねに一般的教養を意味している。専門家になるために読書の必要のあることは云うまでもないが、ひとは特に一般的教養のために読書しなければならぬ。そして専門家も一般的教養を有することによって自分の専門が学問の全体の世界において、また社会及び人生にとって、如何なる地位を占め、如何なる意義を有するかに就いて正しい認識を得ることができるのである。専門家も人間としての教養を具《そな》え専門家の一面性の弊に陥らないように読書は勧められるのである。そのうえ自分の専門以外の書物から専門家が自己の専門に有益な種々の示唆を与えられる場合も少くないであろう。かくして多読は濫読の意味においては避くべきことであるとしても博読の意味においては必要であると云わねばならぬ。
然るに濫読と博読とが区別されるようになる一つの大切な基準は、その人が専門を有するか否かということである。何等の方向もなく何等の目的もない博読は濫読にほかならぬ。一般的な読書に際しても、ひとはなお何等か専門というべきものを有しなければならぬ。一般的教養も専門によって生きてくるのであって、専門のない
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