能であろう。読書は先ず濫読から始まるのが普通である。しかしいつまでも濫読のうちに止まっていることは好くない。真の読書家は殆どみな濫読から始めている、しかし濫読から抜け出すことのできない者は真の読書家になることができぬ。濫読はそれから脱却するための濫読であることによって意味を有するのである。
 濫読に止まるなということは多読してはならぬということではない。多読家でないような読書家があるであろうか。寧ろ読書家とは多読家の別名である。諺《ことわざ》に、賢者はただ一冊の本の人間を恐れる、という。ひとは多く読まなければならぬ。読書の必要はただ一冊の本の人間にならないために、云い換えれば、一面的な人間にならないために、存在するのである。単に自分自身の時代のみでなく、また過ぎ去った時代について、単に、自分自身の国のみでなく、また世界について、全体の生活と思想について正しい見通しを得るために、多く読まなければならぬ。即ち読書において一般的教養を心掛けることが大切である。読書家とは一般的教養のために読書する人のことである。単に自分の専門に関してのみ読書する人は読書家とはいわれぬ。教養とは或る専門の知識を
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