ではないか。あやまちを為すことを恐れている者は何も掴《つか》むことができぬ。人生は冒険である。恥ずべきことは、誤謬を犯すということよりも寧《むし》ろ自分の犯した誤謬から何物をも学び取ることができないということである。努力する限りひとはあやまつ。誤謬は人生にとって飛躍的な発展の契機ともなることができる。それ故に神もしくは自然は、老人の経験に基く多くの確かに有益な教訓が存するにも拘らず、青年が自分自身でつねに再び新たに始めるように仕組んでいるのである。だからといって、もちろん、先に行く者の与える教訓が後に来る者にとって決して無意味であるというのではない。そこに人生の不思議と面白さとがあるのである。読書における濫読も同様の関係にある。濫読を戒めるのは大切なことである。しかしひとは濫読の危険を通じて自分の気質に適した読書法に達することができる。一冊の本を精読せよと云われても、特に自分に必要な一冊が果して何であるかは、多く読んでみなくては分らないではないか。古典を読めと云われても、すでにその古典が東西古今に亙って数多く存在し、しかも新しいものを知っていなくては古典の新しい意味を発見することも不可
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