であろう。
ところでかように自分自身の読書法を見出すためには先ず多く読まなければならぬ。多読は濫読《らんどく》と同じでないが、濫読は明かに多読の一つであり、そして多読は濫読から始まるのが普通である。古来読書の法について書いた人は殆どすべて濫読を戒めている。多くの本を濫《みだ》りに読むことをしないで、一冊の本を繰り返して読むようにしなければならぬと教えている。それは、疑いもなく真理である。けれどもそれは、ちょうど老人が自分の過去のあやまちを振返りながら後に来る者が再び同じあやまちをしないようにと青年に対して与える教訓に似ている。かような教訓には善い意志と正しい智慧《ちえ》とが含まれているであろう。しかしながら老人の教訓を忠実に守るに止まるような青年は、進歩的な、独創的なところの乏しい青年である。昔から同じ教訓が絶えず繰り返されてきたにも拘《かかわ》らず、人類は絶えず同じ誤謬《ごびゅう》を繰り返しているのである。例えば、恋愛の危険については古来幾度となく諭《さと》されている。けれども青年はつねにかように危険な恋愛に身を委《ゆだ》ねることをやめないのであって、そのために身を滅す者も絶えない
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