くる。読書においてひとは何よりも特に古典の中から自分に適したものを発見するように努力しなければならぬ。それによって自分の思想というものも作られてくるのであり、愛読書といわれるものも定まってくるのである。愛読書を有しない人は思想的に信用のおけない人であるとさえ云うことができるであろう。自分に適した善い本が決ってくれば読書もおのずから系統立ってくるのであって、即ちそれと同じ系統に属する書物を、或いは過去に遡《さかのぼ》り或いは現代に降《くだ》って、読むようにすれば好い。固より他の系統のものを読まなくても好いというわけではなく、却って偏狭にならないために博く読むことはつねに必要なことである。けれども無系統な博読は濫読に過ぎない。

        四

 善いものを読むということと共に正しく読むということが大切である。正しく読まなければ善いものの価値も分らないであろう。正しく読むということは何よりも自分自身で読むということである。マルクス・アウレリウスは彼の師について感謝をもって書いている。「ルスティクスは私に、私の読むものを精密に読むこと、皮相な知識で満足しないこと、また軽薄な批判者が云う
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