書の有する微妙な味、繊細な感覚は飜訳によって伝えられることが不可能である。そのうえ飜訳はすでに解釈であるということを知らねばならぬ。ひとは原語で読む困難を避けてはならない。飜訳で読むのが原書で読むのよりも速いということはあるにしても、ゆっくり読むことはそれだけ自分で考えながら読む余裕を与えることにもなるのであり、そしてこれは大切なことである。原書を読むには語学の力がなければならないが、その語学というものも決して手段に過ぎないようなものではなく、却って語学そのものが一つの重要な教養である。一つの国語はその民族の精神の現われであり、その思想の蓄積であるということができる。勿論あらゆるものを原語で読むということは不可能であり、またあらゆる場合に原語で読まねばならぬというわけではない。原語で読むことができないという理由でそれを読まないというのは悪い口実である。また飜訳で間に合わせて十分な書物も多い。しかし重要な本はできるだけ原書で読むようにしなければならぬ。飜訳の方が簡単であるからというので原語で読むことを避けようとするのは読書における便宜主義であって、便宜主義は読書においても有害である。
善い本を読まねばならぬことは明かであるにしても、何が善い本であるかを見分けることは容易でない。古典といわれるものは善い本であるに相違ないが、その古典も多数であって選択が必要であり、殊に新刊書の場合においては選択は愈々《いよいよ》困難である。自分ですべての本に当ってみることは不可能であるとすれば、読書の指針として他人の挙げた目録とか新刊紹介とかに頼らねばならず、すでに定評のあるものを読むようにしなければならぬ。しかしながら定評とか他人の意見とかにばかり頼るということは危険である。読書においてもひとは自主的でなければならず、発見的であることが大切である。各人は自分に適した読書法を見出さねばならぬように自分に適した本を見出すことに努めなければならぬ。単に自分に媚《こ》びるというのでなくて、自分に役立ち、自分を高めてくれるような本を読むようにしなければならぬ。各々の人間には個性があるのであるから、一人の人間に適する本がすべて他の人間にも適するというわけではない。読書においても個性は尊重されねばならぬ。一般に善い本といわれるものの中でも自分に適したものとそうでないものとが自分の個性によって決って
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