くる。読書においてひとは何よりも特に古典の中から自分に適したものを発見するように努力しなければならぬ。それによって自分の思想というものも作られてくるのであり、愛読書といわれるものも定まってくるのである。愛読書を有しない人は思想的に信用のおけない人であるとさえ云うことができるであろう。自分に適した善い本が決ってくれば読書もおのずから系統立ってくるのであって、即ちそれと同じ系統に属する書物を、或いは過去に遡《さかのぼ》り或いは現代に降《くだ》って、読むようにすれば好い。固より他の系統のものを読まなくても好いというわけではなく、却って偏狭にならないために博く読むことはつねに必要なことである。けれども無系統な博読は濫読に過ぎない。
四
善いものを読むということと共に正しく読むということが大切である。正しく読まなければ善いものの価値も分らないであろう。正しく読むということは何よりも自分自身で読むということである。マルクス・アウレリウスは彼の師について感謝をもって書いている。「ルスティクスは私に、私の読むものを精密に読むこと、皮相な知識で満足しないこと、また軽薄な批判者が云うことに直ちに同意しないことを教えた」。正しく読むことは自分の見識に従って読むことである。
正しく読もうというには先ずその本を自分で所有するようにしなければならぬ。借りた本や図書館の本からひとは何等根本的なものを学ぶことができぬ。高価な大部の全集とか辞典のようなものは図書館によるのほかないにしても、図書館は普通はただ一寸《ちょっと》見たいもの、その時の調べ物にだけ必要なもの、多数の専門文献のために利用されるのであって、一般的教養に欠くことのできぬもの、専門書にしても基礎的なものはなるべく自分で所有するようにするが好い。しかしただ手当り次第に本を買うことは避けねばならず、本を買うにも研究が必要であり、自分の個性に基いた選択が必要である。その人の文庫を見れば、その人がどのような人であるかが分る。ただ沢山持っているというだけでは何にもならぬ。自分に役立つ本を揃《そろ》えることが必要である。ただ善い本を揃えるというのでも足りない、すべての善い本が自分に適した本であるのではない。各人は自分に適した読書法を見出さねばならぬように、自分自身の個性のある文庫を備えるようにしなければならぬ。何を読むべき
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