て、新刊書を読むことは一種の冒険である。しかし読書においても冒険するのでなければ得ることがないであろう。古典を偏愛して新刊書を嫌悪する者において読書は単に趣味的になる傾向があり、一種のディレッタンティズムに陥り易い。しかしまた新刊書ばかり漁って古典を顧みない者も他の種類のディレッタンティズムに陥る危険がある。読書にも年齢があり、老人は古典的なものを好み、青年は新しいものを求めるというのが普通である。青年が新刊書を喜ぶということはその知識欲の旺盛《おうせい》を示すものであって排斥すべきことではないが、しかしそこにはまた単なる好奇心の虜《とりこ》になる危険もあるのである。古典のために新刊書を軽蔑《けいべつ》することなく、新刊書のために古典を忘却することのないようにするのが肝要である。
 古典を読むことが大切である如く、ひとはまたつねに原典を読むように心掛けねばならぬ。解説書とか参考書とかを読むことも固より必要ではあるが、本質的には原典を中心としてこれに頼らねばならぬ。原典はつねに最も信頼し得る書物である。例えばプラトンとかカントとかについて千の文献を読むにしても、原典を読むこと、これを繰り返して読むことをしないならば、深く根本的に学ぶことができぬ。第三者の書いた解説書よりも原典は本質的な意味においては一層理解し易いものである。多数の参考書を読むよりも一冊の原典を繰り返して読むことがそのものを掴むのに結局近道である。そのうえ原典は屡々解説書よりも短いという利益を有している。原典を読むことは読書を単純化するに必要な方法である。それは何よりも読書の経済化、簡易化を意味している。前に述べた規則的に読むという必要は原典の場合において特に大きいであろう。本はひとに読んで貰うのでなくて自分自身で読まねばならぬとすれば、この自分自身で読むという必要は原典の場合においては絶対的である。然るに世の中には文学上の作品についてさえ、それを自分で読まないで、他人の書いた解説や批評ばかりを読んでいる人が少くないのである。ひとはつねに源泉に汲《く》まねばならぬ。源泉はつねに新しく、豊富である。原典を読むことによって最も多く自分自身の考えを得ることもできるのである。
 原典を読むことが必要であるように、できるだけ原書を読むようにすることが好い。どのような飜訳よりも原書がすぐれていることは確かである。原
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