ものに対して始まるのでなく、表現的なものに対して始まるのである。あたかも画家があらゆる任意の対象を画くのでなく却って芸術的意味を表現するものとして彼に呼び掛けるものを画くように、物理学者もあらゆる任意の対象を研究するのでなく却って物理的意味を表現するものとして彼に呼び掛けるものを研究する。ラッセルがいった如く、物理的認識において「有意味の事実」というものは重要な関係をもち、何が有意味の事実と考えられるかは歴史的に変化している。それは一定の物理法則に関して表現的な事実をいい、物理学者は主としてかような事実について研究するのである。表現的なものの呼び掛けに応えて起る主体の活動が一般に表現作用であり、芸術的活動のみでなく、我々のすべての行為は表現的であり、認識も表現作用の一つにほかならない。我々の行為は単に自己から起るのでなく、世界から喚《よ》び起されるのである。理性はただ主観のうちにあるのでなく、却って物のうちにあるのであり、客観的表現的なものが理性である。真に自己自身に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものである。ロゴスは理性を意味すると共に、言葉を、客観的表現的なものを意味する。科学も元来環境において生活する人間の行為として起ったものであり、環境としての自然は単なる客観としての自然でなく、表現的な世界である。我々は表現的世界のうちにあり、我々の行為はこの世界から喚び起される、認識作用もまたかくの如きものである。表現作用は表現的なものに対して起る。認識が表現であるということは模写であるということでなく、構成であるということでもない。表現作用は形成作用であり、主観的・客観的な作用である、それは模写的であると同時に構成的であり、構成的であると同時に模写的である。認識を形成と考えることは、それを単に主観的なものと考えることではない。却って客観は操作的な主体に媒介されることによって自己の本質を顕わにし、真の客観性において示されるのである。すべての技術は物をしてその本質を発揮させる、認識も形成としてかようなものである。認識が主観的・客観的な形成作用であるということは、認識が発見或いは発明であることを意味している。主観的と客観的との統一はその際生産的である。真理は単にあるものでなく、歴史的に発見或いは発明されるものである。論理の如きものも歴史的に発展してきたのである。我々が機械を創造するように、我々は真理を発明するともいい得るであろう。かようにして認識が形成であるということはそれがもと表現的な歴史的な世界におけるものであることを意味している。
四 物 関係 形
現象を説明するにあたって先ず二つの方向がある。一は物概念による説明であり、他は関係概念による説明である。物概念と関係概念とは思惟の方法或いは思惟の理念における二つの根本的な方向を現わしている。そして古代的思惟から近代的思惟への推移は、物概念から関係概念への推移であるということができる。
物とは何であるか。物は一定の性質、一定の量を有し、また一定の関係に立っている。性質や量、関係等は物そのものでなく、物に附帯してあるものである。物とはそれら性質、量、関係等の基底に横たわるものである。かようにその基底に横たわるものは哲学上の言葉で実体といわれる。物概念は実体概念である。実体は性質等が変化してもつねに同一にとどまると考えられるものである。アリストテレスに依ると、実体とは「第一次的な存在」である。性質とか量とかの範疇で現わされるものはそれ自身において独立に存在するものでなく、実体に附帯して存在するに過ぎぬ。性質とか量とかは実体があって初めてそれについて語られるのであって、実体は性質、量、状態、関係等よりも本性上より先なるもの、第一のものである。実体概念によって考えるというのは、このように第一次的な存在が何であるかを明かにすることであり、実体とこれに附帯するものという秩序において考えることである。かような考え方は我々の自然的な考え方、日常的な世界像に一致している。そして認識論上の模写説がまたかような自然的な考え方に一致しているのである。認識が模写であるというのは、どのようなものの模写でもが認識であるということでなく、物の実体的本質の模写が認識であるということでなければならぬ。例えばプラトンに依ると、真の知識はただ真の存在(彼のいうイデア)についてのみ成立し得るのであって、これに反し存在と非存在との混合である現象の世界については単に意見があり得るのみである。
ギリシアにおいて形成されたいわゆる形式論理において、概念とはかような物の本質、実体を現わすものである。概念は我々の感覚に与えられた個々の特殊的なものから、それらに共通に属するものを取り出すことによって作られる。その場合思惟の機能は感覚の多様なものに対して、主として、比較すること、区別することである。特殊的な対象の間を往来する反省は抽象作用に導き、これによって特殊的な対象における類似の要素は他のすべての類似ならぬ要素の夾雑物から解き離されて純粋にそれだけとして抽出される。概念は感覚的実在に対して無関係なものでなく、この実在そのものの一つの部分をなしている。それは感覚的実在のうちに直接に含まれているものが抽出されたにほかならぬ。かようにしてこの概念構成によっては我々の自然的な世界像の統一は何処においても妨げられることなく、危くされることがない、その点に形式論理における概念構成の固有の長所があるといえるであろう。
近代のいわゆる認識論が実体概念の批評をもって始まったということは特徴的である。ヒュームはそれを次の如く批評した。物というものを分析すると、種々の観念に分解されてしまう。そこには色の観念とか大いさの観念とか堅さの観念とかがある。それらの観念とは別に物というべきものはない。従ってヒュームに依ると、物とは観念の束に過ぎぬ。しかるになお物というものがあるかのように考えるのは、或る一定の観念が繰返し結合して経験されるところから、習慣によって我々はそこに物というものがあるかのように信じているのである。もしこのように物が観念結合の習慣に過ぎないとすれば、その知識は普遍性も必然性ももたないことになるであろう。実体は観念の結合であるにしても、その結合は普遍的で必然的なものでなければならぬ。しかるに経験論は観念結合の普遍妥当性を明かにすることができない。そこでカントは実体を一つの範疇、言い換えると思惟の先験的形式と考えたのである。物とは直観に与えられた多様なものが実体と属性という範疇によって構成されたものにほかならず、我々は物を構成することによって物を認識するのである。カントのいわゆる先験論理は経験構成の論理である。それは経験の対象を可能ならしめると共に対象の認識を可能ならしめる論理であった。
ところで既にいった如く、カントの構成主義の認識論は近代の自然科学的思惟に影響され、これに相応している。アリストテレスにおいては、実体が先のものであり、関係は性質、量、状態等と共に実体に附帯するものとして従属的な地位にある。関係は本来の本質概念に対して依存的なものにとどまっている。概念構成についてのアリストテレスの説における指導的な見地は、属性に対する実体の優位の関係のうちに存している。しかるに自然科学的思惟においては実体概念に代って関係概念が指導的な地位を占むるに至った。実体概念と関係概念との間に想定される価値関係の相違に従って、アリストテレス的論理とカント的論理との二つの典型的な形態が区別される。自然科学的見方においては物は関係から構成されるのであり、諸関係の網のいわば結び目である。
近代自然科学に特徴的な認識論はカント主義者であったヘルムホルツの記号説において見ることができる。知識は記号であるというとき、記号は物的な類似でなくてただ双方の側の構造の函数的対応を要求するのである。記号のうちに捉えられるものは記号された物の特殊な固有性でなく、それが他の類似のものに対して立っている客観的な関係である。我々は我々の表象によって現実そのものをその孤立した自体において存在する性質において認識するのでなく、現実がそのもとに立ちそれに従って変化するところの規則を認識するのである。我々が一義的に見出し得るのは現象における法則であり、この法則は函数概念において現わされる。関係概念によって考えることは函数概念によって考えることである。法則性は我々にとって現象が理解され得るものになる条件であり、法則性は我々が物そのものに移し得る唯一の属性である。かようにしてカントのいった如く、自然とは「現象の、その現存在に従っての、必然的な規則即ち法則に従っての聯関」にほかならず、言い換えると、空間と時間とにおける現象の規則性である。物は諸関係に分解され、諸関係、諸法則から認識されるのである。ここに物概念或いは実体概念に対する関係概念或いは函数概念の優位が成立する。そこで精神についても、従来の心的実体を考えた心理学に対していわゆる「心のない心理学」が唱えられ、また物理学においても「物質は消滅した」とさえいわれるようになった。しかしながら自然科学からあらゆる物的要素を排除し得るかの如く考えることは間違っている。関係概念的見方は、我々はただ存在要素の間の関係をのみ思惟的に把握し得るという意味でなく、我々はただ関係の範疇を通じてのみ物の範疇に達し得るという意味である。
しかるに現代に至って、自然科学的認識に対する歴史的認識の特殊性が注目され、両者における概念構成の相違が主張されるようになった。自然科学の認識目的が法則であるに反し、歴史学の認識目的は法則でなくて個性であるといわれる。ヴィンデルバントは自然科学と歴史学との区別を論じて、自然科学が法則定立的であるに反し、歴史学は個性記述的であると述べている。個性というのは個人のことばかりでなく、社会にしても文化にしても個性をもっている。すべて歴史的なものは個性的である。自然科学においては個々の特殊的なものは一般法則の例としてそのもとに包摂される。しかるに個性は一般法則の例に過ぎぬようなものでなく、それぞれ他に換えることのできぬ独自性を具えている。また自然現象は繰返すと考えられるに反し、歴史的なものは一回的なものである。更に自然科学が対象を意味とか価値とかから離れて取扱うに反して、歴史的なものはすべて意味とか価値とかに関係して考えられる。生理学の対象としては仮に天才と狂人とは同じであるとしても、文化価値に関係させて見れば全く違い、天才は芸術的価値というが如き文化価値の見地から歴史学の対象となるが、狂人はそうでない。かような個性は法則に対して何かといえば、形であると一般に答えることができる。すべて歴史的なものは形をもっている。ここに形というのは単なる形式のことでなく、内容を内から生かしているもの、内容そのものの内面的統一をいうのである。しかし形は、もとより単に内的なものでなく、外に現われたもの、表現的なものである。表現的なものとは内と外とが一つのものである。それは意味をもったものであるといっても、その意味は単に内的なものでなく、物の形において現われたものでなければならぬ。形はそれぞれ特殊的なものである。けれどもそれは単に特殊的なものでなく、一般的なものと特殊的なものとの統一である。個性といっても単に特殊的なものでなく、特殊的であると共に一般的なものであり、その統一は具体的には形において与えられている。歴史学の認識しようとするのは個性でなく、型(タイプ)であるともいわれている。型は或る一般的なものである。けれどもそれは形式論理における類概念の一般性とは異っている、型はむしろそれぞれ個性的なものである。型というのは歴史的な形にほかならない。或いは歴史科学は単に個性を捉えようとするのでなく、却って法則、例えば、歴史の発展段階の法則の如きものを求めるのであると主張されている。しかしかような法則も、歴史の法則として、形
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