なものを排した場合にも、デカルトに見られる如く、いわゆる自然的光によって明晰で判明な知覚は与えられ、この直観的明証が真理の基準とされたのである。感性知覚の如きものにも物を写すという意味がある以上、それは単に盲目的なものとは考えられないであろう。かくの如く客体がそのものとして顕わになるということは、さきに述べたところに依ると、主体の超越によって可能になる。主体の超越がなければ認識が模写であるということも考えられない、模写説も根源的に主体的条件のもとに立っている。
しかし前から論じてきた如く、認識が模写であるということには種々の困難がある。その困難は、我々の観念は物の模写でなくて記号であると考えることによって除かれ得るように思われる。特に知識はただその究極の意味において存在の模写であると考えてゆけば、それは存在の摸写でなくて記号であると考えて好いであろう。模写説においても、ロックの場合の如く、感覚はしばしば物の代表と見られている。代表ということを一歩進めると記号である。記号は模写の意味を離れた代表である。かようにして知識は模写であるという説に対して、知識は記号であるという記号説がある。模
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