々の能動性に属している。即ち経験は受動性であると同時に能動性である。我々の行為はただ或る意味においてのみ環境の刺戟によって惹き起されるに過ぎぬ、なぜなら我々の活動そのものが我々の活動を惹き起す環境を作り出すことを助けるのであるから。刺戟によって生ずる反応は同時に刺戟を変化する。主体は単なる環境に対して反応するのでなく、むしろ環境プラス主体に対して反応するのである。客観的状況といわれるものも実は単に客観的でなく、同時に主観的である。行為もまた単に主観的なものでなく、同時に客観的なものであり、環境の函数にほかならぬ。
 我々は経験によって環境に適応してゆく。環境に対する我々の適応は、本能的或いは反射的でない場合、「試みと過ち」の過程を通じて行われる。この試みと過ちの過程が経験というものである。経験するというのは単に受動的な態度でなく、試みては過ち、過っては試みることである。経験という言葉は何か過去のものを意味する如く理解され易く、既に行われたことの登録、先例に対する引き合せが経験の本質であるかの如く信ぜられている。経験論の哲学も経験を「与えられた」もののように考えた。しかし経験は試みること
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