として未来に関係付けられている。試みるというのは自主的に、予見的に行うことであって、かような経験には知性が、その自発性が予想される。自発的な知性がそこに働くのでなければ、試みるということはない。経験は試みることとして直接的でなく、すでに判断的であり、推論的であるとさえいい得るであろう。もちろん経験は単に思惟的でなく、却ってその本質において実験的である。すべての経験は実験である、ただ経験には科学における実験の如き方法的組織的なところが欠けており、従ってそれは偶然的である。実験が技術的であるように、経験もすでに技術的である。経験において、我々は試みては過つ、過つということはいわば経験の本性に属している。本能はそれ自身に関する限り過つことのないものであるが、経験においては過ちがある。しかもそこに経験の価値があるのであって、過つことによって我々の知識は本能の如く直接的なものでなく反省を経たものになってくる。誤謬の存在によって我々の知識は媒介されたものになるのである。試みと過ちの過程において我々は正しい知識、正しい適応の仕方を発明する。経験は発明的である。それが発明的であるということは、経験が主
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