るといわれるであろう。経験論の哲学が感覚とか印象とかを基礎とするのも、そのためである。かように受動的状態を重んずるのは、対象を自己に対して働かさせようとするものであって、経験論の動機も実証的或いは客観的であろうとするところにある。経験は客観的なものを意味し、自己が実際に出会うもの、客観的に与えられたものが経験である。しかし他方経験はつねに主体に関係付けて理解される、経験は経験するものの経験であり、経験する主体を離れて経験はない。経験論が経験を主観的なものと考えるに至ったのも、それに依るのである。ただ経験論は、この主体を単なる意識と考えることによって経験を心理的なものとしたばかりでなく、更にその意識を単に受動的なものと考えた。しかも実は、単に受動的であっては客観性に達することも不可能であったのである。経験は主体と環境との関係として行為の立場から捉えられねばならぬ。感覚も身体的な行為的自己の尖端として重要性をもっているのであり、感覚にも能動的なところがある。尤《もっと》も、行為といっても単に能動的であるのではなく、環境の刺戟に対する反応として環境から規定されている。けれども反応することは我
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