を得るということは、行為にとっても大切である。懐疑は探求の動力である。しかしながら探求は懐疑によって促されるにしても、探求そのものは何等かの真理のあることを予想している。さもないと探求するということはおよそ無意味でなければならぬ。「もし我が汝に出会ったことがなければ我は汝を求めはしないであろう」、とパスカルはいった。絶対的真理があるとの自覚がなければ、知的探求は始まらないであろう。尤《もっと》も、懐疑論は経験を尚ぶところに重要性をもっている。古代の懐疑論も、近代の懐疑論も、経験に訴えて論ずるのをつねとした。純粋に思惟によって絶対的真理に達し得るとする合理主義に経験の立場から反対した点に、懐疑論の真理性がある。しかし懐疑論は経験の意味を深く理解しなかったために懐疑論に陥ったのである。特にそれは観想の立場に止まって、経験を行為の立場から把握しなかったところに誤謬がある。
それにしても、経験的事実として知識が相対的であることは争われないように見える。相対主義には何等かの真理が認められねばならぬ。経験的に見るということも種々の意味があるであろう。論理主義に対するものは心理主義である。心理主義
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