しているのが普通である。懐疑論が常識主義になっているのは歴史においてつねに見られることである。事実、すべては疑わしいという立場においては我々は生きてゆけないのであって、生きている以上、何か確実なものがあること、拠り所となり得るものがあることを認めているのである。懐疑論は真理はないと主張することにおいて自己矛盾であると批評されるが、懐疑論は何等主張するものでなく、却ってピュロンがいった如く、判断中止が懐疑論者の態度であるといわれるであろう。しかしながら判断中止によっては我々は行為することができぬ。行為するとは決断すること、意志決定をすることである。それ故に懐疑論はたかだか観想の立場において可能であるのみであって、行為の立場においては全く不可能であるといわねばならぬ。尤《もっと》も懐疑論という立場を離れて、懐疑そのものを考えると、懐疑には重要な意味がある。すべての知的探求は懐疑に始まるのである。これまで真理と信じられていたことを疑うところから新しい探求は始まり、知識の進歩が可能になる。我々が行為的であることから知識的であることに移るのは懐疑においてである。懐疑によって独断を破り、正しい認識
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