ばならぬ。従って主観は個人的な我であり得ず、超個人的な我でなければならぬ。かような超個人的な主観をカントは意識一般と称した。認識は意識一般の綜合的統一によって生ずるのである。
ところで意識一般というものは現実の人間の意識でなく、これに対しては単に形式的な意味をもつに過ぎぬといわれるであろう。それは心理的なものでなく、どこまでも論理的に考えらるべきものであり、かようにして意識一般とは表象の普遍的で必然的な結合の規則にほかならないと考えられる。しかしながら単に形式的なものは働くことができぬ、働くものは現実的なものでなければならぬ。現実的なものは世界のうちにあるのでなければならぬ。しかるにカントの主観は世界を構成するものであるが、世界は客観として主観に対しておかれ、従って主観そのものは世界のうちに入っていないことになる。現実の人間は世界のうちにいて、そこで働き、そこで考えるのであって、認識にしてもかくの如き人間の活動にほかならぬ。もとより人間にどこか超個人的なところがなければ知識は可能でないであろう。けれどもこの超個人性は単に形式的に理解さるべきでなく、却って現実の人間における主体的超越と
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